東雲堂 高木雄三社長インタビュー
博多駅のお土産売り場で、お面の形をしたせんぺいを見たことはありますか。博多にわかのお面をかたどった「二○加煎餅(にわかせんぺい)」は、永く福岡のお土産として親しまれているお菓子です。
つくっているのは、東雲堂。発売から約120年、原料も製法もほとんど変えずに、同じせんぺいを焼き続けています。
24歳で家業に戻った6代目・高木雄三社長は、どんな思いでせんぺいと向き合ってきたのでしょうか。今回は学生リポーター2人が、二○加煎餅の誕生秘話から社長自身のキャリア、お菓子づくりに込めた思いまで伺いました。

博多駅長のひと言から生まれた、二○加煎餅
二○加煎餅は、どうやって生まれたんですか?
発売は1906年、明治39年です。当時、博多駅の近くにお店があって、駅長から「何か博多らしいお土産はないのか」と言われたのがきっかけでした。新しいお土産を考えたときに、当時流行っていた博多にわかに注目したんです。
だから、にわかのお面の形なんですね。
大阪に行ったときに瓦煎餅を見てきて、にわかの形で煎餅を作ったらいいんじゃないかと。それで出したのが最初ですね。
もともと、お菓子づくりをされていたんですか?
もとは「三角屋」という名前で、饅頭を作っていたと聞いています。駅の資料に載っているらしいんです。たぶん今でいう酒饅頭のようなものや、お茶やみかんを駅に売りに行っていたんだろうなと。
「せんべい」ではなく「せんぺい」なんですね。
うちは「せんぺい」と言っています。昔の資料を見ると「せんべい」のときもあって、たぶん両方あったんです。
たしかに、どちらでも通じますね。
ただ、登録するときにどちらかに決めないといけなくなって、「せんぺい」をメインに登録しました。文献を見ると、米で作られたものが「せんべい」、小麦粉のものが「せんぺい」という説があります。九州では「せんぺい」と言う方言だ、という言語学者の説もあるんです。
初めて聞きました。
どちらの説もある中で、うちはただ単に「ぺい」の方がこのキャラクターに合っているかなと思って、「せんぺい」に統一しました。
発売から120年。それだけ続く会社は、なかなかないですよね。
でも、お菓子屋さんは永いところが本当に多いんですよ。京都のお菓子屋さんに行ったら、450年と言っていましたね。歴史が永い会社はそれだけ物語がありますから、調べてみると面白いですよ。
24歳で家業へ。小学生のころの夢は「せんぺい屋」
小さいころから、会社を継ぐように言われていたんですか?
私は3人兄弟で兄がいるので、そういうことは何も言われていません。就職するときに兄と話して、「とりあえず30歳までは自由にさせてもらおう」と。父が60歳ぐらいになったら、会社をどうするかという話が出るのかなと思っていたんです。
そこから、状況が変わったんですね。
私が24歳のときに父が亡くなったんです。まさか、そんなに早くとは思っていませんでした。弟はまだ大学生で、兄は継がないと言う。そのとき、二○加煎餅がなくなってしまうのは、なんだか寂しいなと思ったんです。それで「じゃあ、僕が会社を継ごう」と当時働いていた会社を辞めて帰ってきました。
24歳で、結構な決断ですよね。
でも、そのときはあまり深く考えていなかったと思いますね(笑)。とにかく二○加煎餅がなくなるのは寂しいな、という一心でした。
戻ってきたとき、会社はどんな状況だったんですか?
父は仕事の話を一切しない人だったので、亡くなって初めて会社の中身を知りました。正直、経営難の状態でした。父のあとは母が社長になりましたが、母はお店の店員として働いていたなので、会社のことはあまり知らなかったんです。
そこから、社長はどうされたんですか?
私が社長になったのは42歳のときです。戻ってきたときは一従業員として、先輩たちに話を聞きながら、まずはせんぺいの焼き方から習いました。
ご家族で、会社の話をすることはなかったんですか?
ほとんどないですね。ただ、小学校のころの将来の夢に、「せんぺい屋になる」と書いていたらしいんですよ。
えっ、そうなんですか!
私は覚えていないんですけど、同級生に会ったときに「小学校の夢を叶えた人間が、うちのクラスに2人いる」と言われて。誰かと聞いたら、「高木と〇〇くん」。〇〇くんは「寿司屋になる」と書いていて、実際に寿司屋の息子だったんです。
お2人とも、本当に夢を叶えたんですね。
自分の家のことを書いただけなんですけどね。ラーメン屋になりたいと書いた記憶はすごくあるんですよ。毎日ラーメンが食べられると思って(笑)。
借り物の言葉より、方言まじりの自分の言葉が伝わった
前のお仕事についてもぜひ教えてください!
消毒やシロアリ対策をする会社です。東京に本社がある会社を選びました。とにかく福岡を出たかったんです。
福岡を出たかったんですか?
大学生のときアルバイトをしていたんです。ある日、そこの社長が会いたいと言っていると聞いて、スカウトかなと思って会いに行ったら、「君が高木さんとこの息子さんか」と。
お父様とつながりがあったんですね。
そうなんです。このまま博多にいたら、どこに行っても「二○加煎餅の息子」として見られるんだろうなと。自分自身として見てもらえる場所で働きたかったんです。最初の配属は静岡県の沼津で、営業の仕事でした。
営業は、どうやって覚えたんですか?
先輩について回って、先輩が話していることを録音して、家で聞いて書き起こしていました。そのクロージングトークを真似して、自分で実践するんです。でも、全然うまくいかなかった。
先輩と同じことを言っているのに、ですか?
自分の言葉じゃないんですよね。セリフを言っている感じになって、気持ちが入らない。いくら回っても全然売れませんでした。
そこから、どう変わったんですか?
あるとき、思わず方言が出たことがあって。そうしたら、普通に契約が決まったんです。
方言がよかったんですか?
人柄が自然と出るんだと思います。東京っぽい借り物の言葉より、方言で「九州の人間なんです」と話した方がよかった。きれいに作られたトークよりも、拙くても自分の言葉で話した方が伝わる。そのときにすごく感じました。
面接でも、つい覚えた言葉で話してしまいがちなので、すごく響きます。

職人の感覚と、昭和の機械
戻ってきてからは、どんなお仕事をされたんですか?
最初は製造です。せんぺいを焼けるようにならないといけないと言われて、せんぺいや饅頭、当時作っていたフルーツケーキやマドレーヌづくりも学びました。
あんこづくりは、本当に難しかったですね。
和菓子の修行って、すごく厳しいイメージがあります。
厳しくはないけど、本当にわからなかったんです。木べらで混ぜながら「これのときに入れてください」と言われても、その「これのとき」がわからないんです(笑)。
感覚の世界なんですね。
「火をつけて何分後に入れたらいいんですか」と真剣に聞きました。でも、その日の湿度や季節によって違うから、何分後とは言えない、と。和菓子は本当に大変です。
製法は、社長が戻ってきてから変わったんですか?
ほとんど変わっていません。原料もほぼ同じですし、機械は昭和49年や50年のものを今も使っています。
そんなに古い機械を!
昔の機械の方が、壊れても直しやすいんです。本当にゼンマイ仕掛けのような感じで、チェーンが伸びたら張り直す、ピンが折れたら差し替える、という程度。今の機械は制御が精密すぎて、どこがおかしいのかわかりにくいんですよ。
味も、昔からずっと同じなんですか?
意図的には変えていませんが、たぶん変わっていると思います。最初は手焼きで、炭からガスにもなりましたし、機械ごとに蒸気の抜け具合も違う。鳥インフルエンザの問題があったときには、卵を殺菌したものに変えて、配合も見直しました。
材料が少し違うだけで、食感も変わるんですか?
変わります。配合がちょっと違うだけで、だいぶ違ってきますから。一度、手焼きをやってみたことがあるんですが、8枚ぐらい並べて表と裏を順番に焼いていくうちに、どれを返したかわからなくなって。1回でパニックになりましたよ(笑)。当時の人は本当にすごいなと思います。
売り場の目線で考える。キャラクターコラボの誕生秘話
お土産屋さんで、いろいろなキャラクターとコラボした二○加煎餅を見かけます。どうやって実現しているんですか?
何とかせんぺいを食べてもらいたい、という思いからです。最初はサンリオさんに話をしに行きました。ただ、当時は条件のハードルが高くて、ドラえもんの「I’m Doraemon」シリーズなら出せる、ということになったんです。
社長ご自身で足を運ばれたんですか?
そうです。ずっと売れる商品が欲しかったので、直接聞きに行きました。ドラえもんである程度売れたら、「さんりおきゃらくたぁず」でもやりましょうとなって。そうしているうちに、ほかからも「一緒にできませんか」と声をかけていただくことが増えました。
コラボ先は、どうやって選んでいるんですか?
大事なのは認知度です。うちは店舗をあまり持っていないので、駅の売店や百貨店に置いてもらって初めて数が出る。売り場の方が「これいいですね」と言えるものかどうかが大切なんです。
今は、みんなが同じものを見ているわけではないので、難しそうですね。
まさにそれで、誰もが知っているものがない。知っていても、買うのとは別問題なんですよね。答えが一人ひとり違うので、本当に難しいです。
今どんなものが人気なのかは、どうやって調べているんですか?
基本的には実際に店舗に足を運んで見ています。今は〇〇が来ているのか、とか。すぐに作れるわけではないですが、情報だけは仕入れるようにしています。
120年続く老舗がキャラクターとコラボすることに、反対の声はなかったんですか?
なかったですね。社内からも、特に何も言われていません。キャラクターのものは別物、というイメージなんだと思います。
シンプルだから、続いてきた。お菓子は「家族の笑顔」を届ける仕事
二○加煎餅は、原料も味もシンプルですよね。どうして100年以上続いてきたんだと思いますか?
答えらしい答えは持っていないんですけど、たぶん本当にシンプルだからだと思います。「うわ、おいしい」というものではなくて、本当に普通なんです。
私は、素朴で懐かしい味だなと感じます。
今はいろいろなものが入ったお菓子が多いから、特別何も入っていない素朴さなのかもしれません。それに、うちはにわかのお面を博多の文化だと思っていて、その文化を継承するためにやっているところがあります。そういう気持ちのある方が買ってくださっているのかな、という気がしています。
お菓子づくりを通して、文化を伝えているんですね。
お菓子は、人に笑顔を届ける仕事だと思っています。せんぺいを通して、家族の和みの場や、家族の笑顔を提供している。文化というと少し大げさかもしれませんが、文化をつないでいくという意識は持ってやっています。
味を変えたいと思うことはないんですか?
本当はいろいろやりたいんですよ。クリームを挟んだり、チョコ味を出したり。でも、それはこれからの戦略次第ですね。

就活生へ。狭いコミュニティを出て、外の世界を見てほしい
社員さんは、どんな年代の方が多いんですか?
若い人もベテランも一緒に働いています。平均年齢は49歳ぐらいで、20代から70代までいます。
70代の方も!
70代でも働いてもらえるので、本当に助かっています。
もし社長が採用するとしたら、どんな経験をしている大学生に来てほしいですか?
経験は、なんでもしてもらったらいいと思います。ただ、どこかに行っておいてほしいという思いはあります。近場でもいいから、「韓国に行ってきました」、「台湾に行ってきました」、それでもいい。見え方が全然違うと思うんです。
国内でもいいんですか?
海外じゃなくてもいいし、東京でも大阪でもいい。社会人になるなら、一人暮らしもしてほしいですね。自分たちの狭いコミュニティだけで「これはすごい」と思っていても、自分が見つからないと思うんです。
外に出ることで、自分のことも見えてくるんですね。
大学生のうちに、ほかにしておいた方がいいことはありますか?
クラブ活動なども楽しいと思いますよ。ようやく受験勉強から解放されたんですから、遊ぶことも大事だと思います。それに、こうして社会人の話を聞きに来ていること自体、すごいと思いますよ。学生のころに社会人の話を聞く機会なんて、そうそうないですから。それだけでも、企業にとってはいい経験をしているなと思います。
おわりに
博多駅長のひと言から生まれた二○加煎餅は、約120年、原料も製法もほとんど変えずに作り続けられてきました。24歳で家業に戻った高木社長は、「なくなるのは寂しい」という素直な思いから、そのバトンを受け取りました。
取材で印象に残ったのは、「借り物の言葉より、自分の言葉の方が伝わる」という話です。うまく話そうと覚えた言葉より、拙くても自分の言葉で話す方が、相手に届く。それは、就活の面接にもそのまま当てはまるはずです。
狭いコミュニティを出て、いろいろな場所を見てみる。そうして、自分の言葉で語れる経験を増やしていく。高木社長がせんぺいを通して家族の笑顔を届けているように、自分は仕事を通して誰に何を届けたいのか。それを考えることが、会社選びの第一歩になるはずです。